俺を見るな派

俺がどうしても理解できない物にアバターがある。面倒なのでストレートに言うが、無料ならともかく、あれに金を使う奴は馬鹿じゃないかと思う。絵が一様に気持ち悪く悪趣味だというのもあるが、それはたいした問題じゃない。たとえ素晴らしいデザインのアバターがあったとしても俺はそれを嫌うだろう。もっとも気に入らないのはコンテンツを書いている本人(の代理)が前に出てくるという点だ。コンテンツより先に「自分」を押し出そうとする姿勢にひたすら腹が立つのだ。

「自分そのものではなく、自分の分身だ」「私はアバターに自分を投影させているつもりはない」「ペットのように考えてはどうか?」これらの意見は全て意味がない。各々がどう使おうと、アバターはその人の代理であるものとしてページデザインされているからだ。

何かを表現し公開する際に
表現されたものを通じて自分も気に入って欲しい
という人と、
誰が作ったかという事は忘れて表現されたものを気に入って欲しい
という人がいると思う。「表現されたもの」というのは作品であったり、ライブだったりするわけだ。便宜的に前者を「とにかく俺を見て派」、後者を「いいから俺を見るな派」と呼ぼう。いや長いから「俺を見て派」と「俺を見るな派」にしよう。

これは俺のなかなか解決されないテーマなのだが、俺自信は「俺を見て派」をもの凄く嫌っている。憎んでいるのかもしれない。自分には完全にその傾向が無いかと聞かれても、自信を持って無いと断言できるには至らないのが残念だが、少なくとも「俺を見るな派」でありたいと思っている。

という話をすると「そんなこと言っても、それは明確に分けられるものでは無いんじゃないの?」と真ん中行っておけば公正に見えるだろ野郎が必ず現れる。あるいは「『私』も含めて作品だ」とか「『私』を嫌いな人は作品も気に入ってもらえないかもしれない」とか「素晴らしい物を作った『私』を認めて欲しいという動機もあるよね」とか、まったく以て何一つ解っていない発言が飛び出すことも予想される。これらの意見はすべて「俺を見て派」の気持ちでしかない。

俺を見るな派」は「私」の不在を目指す。それは特徴が無いという意味ではない。「ひと目で○○の作品と解る」というのはむしろ歓迎すべき事だ。その上で、制作者の人格や制作中の心理状態といった汚れを作品に一切残したくないのだ。「偉いのは作品であって作者ではない」という原則は譲れない。

幸か不幸か「俺を見て派」は「俺を見るな派」を永遠に理解することができないが、「俺を見るな派」にとって「俺を見て派」の心理を想像するのはそれほど難しいことではない。よって、両者は対立することがない。「見て派と争う」というこの世で最も不毛な作業を未然に防ぐという点では幸いだが、その結果として「見て派」が前に出続けるという不幸をもたらしている。