経験主義

日本でもその傾向があったと思うが、こちらでは経験を極端に偏重する傾向がある。「現場の意見こそが最も正しい」という考えは疑問の余地すらないようだ。例えば教育論は「子供を育てたことがあってかつ教員の経験のある人」以外の意見は最初から見向きもされない。子供が多い人ほど、教員を長く勤めた人ほど正しい意見を持っていると考えられているのだ。
建築については更に厳しい。「現場で働いたことがあり、設計を数多く手がけ、いろいろな建物に住んだことがあって、解体の現場でも働いたことがある人」でなければ建築について語る資格が無いという風潮があるからだ。このような考え方は分野を問わず多岐に渡っている。従って音楽家としての実績が無い人の音楽評論や映画出演・監督の経験が無い人の映画評論など、こちらの人は思いつきもしないだろう。
経験の無い人からの意見を封じる言葉は日本と変わりないと言う点が面白い。経験者による未経験者への典型的な反論はこんな感じだ。
「現場の経験の無い人が何を言っても、言葉の遊びにしか聞こえない」
「そんなのは、理論をもてあそんでいるだけの戯言だ」
「現場に来ればそんなママゴトが通用しないことは、誰でも知っている」
これでは議論は進まない。そもそも経験偏重という傾向は議論など無駄という考えから来ているのだから、議論が進まないのは当然のことなのだ。
この経験偏重の弊害が医療の現場に現れはじめているようだ。きっかけは、某市の開業医バルレリオ・ルイス氏が自身の骨折治癒の経験を経た後に、自分の経営する病院の広告で「骨折したこと無い医者に骨折の治療が解るのか」と大々的にアピールしたことにある。これは、経験が絶対視されるこの地の人々に受け、「骨折と言えばルイス医師」というのが定番となった。この傾向はどんどんと悪い方向に進んでいる。今はまだ、軽い胃痛や肥満治療、美容整形に留まっているが、そのうち生命に関わる重病に波及しないとも限らない。「ガン治癒経験が無い人がガンの治療を語っても、それは机上の空論に過ぎない」と言い出す人がいつ現れてもおかしくないのだ。
一方、馬鹿馬鹿しい話もある。経験偏重主義にとって盲点とも言える業種に「経験者」を名乗る者が参入してきたのだ。某市の郊外にある葬儀場経営者アントニオ・アロンソ氏だ。意識不明の重体から奇跡的に回復をした(本人は「心臓は停止し、医者は一度死亡を宣告した」と言っている)という経験を持つアロンソ氏は、自身を「死んだことがある唯一の葬儀場経営者」と呼び、他の葬儀場は「死んだこともないド素人のお遊び」だと主張している。当然、氏に対して反発する同業者は多いのだが「死んでみれば、そんなママゴトが通用しないことは明らかに解ることだ」と取り合わない。
これが受け入れられるのだから本当に面白い国だと思う。